大阪高等裁判所 平成3年(う)692号 判決 1992年2月28日
主文
原判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
第一 控訴趣意に対する判断
本件控訴の趣意は、弁護人渡部善信作成の控訴趣意書に記載のとおりであるから、これを引用するが、論旨は、要するに、被告人は原判示の犯行の犯人ではなく、原判決は事実を誤認している、というのである。
そこで、所論にかんがみ、記録を調査し、当審における事実取調の結果をも参酌して検討するに、原判決は、以下の理由により破棄を免れない。
一 原判決が認定判示した罪となるべき事実は、ほぼ公訴事実のとおりであって、その要旨は、
被告人は、平成二年八月一日午前四時四五分ころ、婦女を強姦する目的で、大阪市淀川区<番地略>「○○○」(以下「本件マンション」という)のW方の居室内へ南側の無施錠のガラス戸を開けて侵入し、就寝中の同女(当時一九歳)に馬乗りとなり、目覚めた同女に対し、右居室内にあった刃体の長さ約八センチメートルの洋バサミをその顔面及び背中に突き付け、その両腕をタオルで後手に縛るなどの暴行を加え、「静かにせい、やるだけや」などと申し向けて脅迫し、その反抗を抑圧した上、強いて同女を姦淫したものである、というのである。
二 右W(以下「被害者」という)が右のような強姦の被害に遭ったことは、関係証拠上疑問の余地がなく(但し、犯行の時間については若干問題があるので、後述する。)、問題はその犯人が被告人であるのか否かである。原判決も(補足説明)の冒頭で指摘するとおり、本件では、被告人と犯行を結び付ける客観的証拠は皆無である。被害者は被告人が犯人であると断定する供述をしており、被告人は、捜査段階で否認→自白→否認→自白という供述変遷を見せたが、原審公判以後は一貫して自分は犯人ではないと供述しているところ、原判決は、おおよそ、①被告人が犯人であるとする被害者の犯人識別供述の信用性は相当高い、②被告人の捜査官に対する自白調書は、大筋において信用することができる、③緊急逮捕時の被告人の警察官に対する供述内容からすると、被告人が犯人であることは殆ど動かしがたい、④被告人の自白したことについての弁解は、前後矛盾し、曖昧かつ不自然で信用できない、との補足説明を付して被告人を犯人と認定した。以下、右原判断の当否を順次検討する。
三 被害者の識別供述の正確性について
被害者は、面通しで被告人を見て以来、被告人が犯人であると百パーセント自信を持って言い切れる旨供述しており、被害者自身が被告人を犯人であると思い込んでいることは確かであるが、その犯人識別供述の正確性を評価するには、被害者にとって犯人も被告人もそれまでに全く面識のなかった人物であるから、被害者が本件被害当時犯人の人相、服装等をどの程度観察でき、どの程度その特徴等を把握できたのか、面通しの方法等に問題はなかったかなどを慎重に検討することが必要不可欠である。
1 第一に、被害者は裸眼視力が左右とも0.03というかなり強度の近視であり、被害当時は、寝込みを襲われたため、普段使用しているコンタクトレンズははずしており、裸眼のままであった(原判決も認めており、争いがない。)。
2 第二に、被害者の供述によると、足下にいる犯人に気付いてから、うつ伏せにされて後手に縛られ、仰向けにされ姦淫されたときは枕かクッションを顔に被せられたというのであり、その供述にある被害状況を仔細に検討すると、被害者が犯人の顔を瞥見する機会はあったとしても、これを凝視する機会があったようには窺われない。原判決は、枕かクッションを顔に被せられる前や、途中これがはずれたときに何度か犯人の顔を見て識別できたという被害者の供述をそのとおり信用できるとしているが、右供述には、被告人を犯人と思い込んでいることを説明するための若干の誇張が含まれている危険性があることに留意しなければなるまい。
なお、原判決は、被害者の供述によれば、被害者は被害に気付いた直後、時計を見て時間を確認し、犯人の目的が体にあることを知るや、まず妊娠の心配をし、姦淫後犯人が手にしたコンドームに犯人の精液が入っていたことを記憶しているとのことであり、被害当時比較的落ち着いていた様子が窺われる、と指摘し、それ故に、うつ伏せにされたり、枕かクッションを顔に被せられたという事情も、それにもかかわらず犯人の顔を識別できたとする被害者の供述の信用性を大きく損なうものとは考えられない、と説示している。なるほど、被害者が被害当時そのように妊娠を心配するなど、ある程度の落ち着きを保持していたことは窺われるが(もっとも、時間を確認したとの点は、後記3の犯行推定時刻に照らすと、必ずしも正確な時間を確認できたとはいいがたいことになる。)、そのことを理由に、被害者が犯人の顔等を凝視する機会があったはずである、といえないことは明らかであろう。
3 第三に、被害者が犯人を観察した際の条件として、本件犯行当時の被害者方の室内の明るさが問題である。当時室内の電気等の照明はなかったから、日の出との関係で犯行の時刻が重要である。当日の日の出は午前五時七分、当時の天候は晴れであったところ、被害者は、犯人に気付いたとき部屋の中の時計を見たら、午前五時ころ(又は五時近く)であったと供述している。原判決は、特に理由を説明することなく、犯行の時刻を午前四時四五分ころから午前五時ころまでと認定したうえ、ベランダに面したガラス戸の大きさ、そこから犯人までの距離など現場の採光状況、被害者と犯人との位置、距離関係等からすれば、被害者が裸眼視力0.03という近視であることを考慮しても、犯人の人相等を識別するには十分な明るさがあったものと認められる、と説示している。
しかし、所論も指摘するように、犯行時刻の推定にあたっては、本件に関する一一〇番通報に基づく緊急配備指令が被告人を緊急逮捕した警察官らの警ら用無線自動車に受信された時刻が午前五時五分であるという記録があり(緊急逮捕手続書参照)、この時刻の正確性には争いがないので、これを基準に考えてみる必要がある。被害者及びHの警察官調書等によると、本件強姦の犯行後一一〇番通報までの経過は次のとおりである(一一〇番通報までは、被害者を主語にして叙述したが、Hの供述によって補っている部分もある。)。
犯人は強姦後トイレに入ったが、出て来る様子がなかったので、逃げるのは今だと思い(犯人がトイレに入ってから逃げる決断をするまでの時間をaとする)、すぐパジャマのズボンをはき、ベランダに出て、西側のスーパーサンチェーンのひさしに出て表に回り、二階の廊下を経て階下に降りた(逃げる決断後ここまでの時間をbとする)。そこで牛乳配達の人と出会い、この人に「今部屋に変な男の人が入って来たのです。助けて下さい」と言うと、その人は「一一〇番してあげる。ここにいなさい」と言ってどこかに一一〇番しに行ってくれた。その人を待ち、本件マンションの管理人である北村義雄方の玄関の戸を叩きながら「助けて下さい」と叫んでいると、本件マンション三階(三〇一号室)のHがベランダから「どないされたの」と声をかけてくれた(階下に降りてからここまでの時間をcとする)。Hに「部屋に行ってもよろしいか」と言うと、快く受けてくれたので、H方に行き(Hに声をかけられてからここまでの時間をdとする)、「今変な男の人が部屋に入って来たのです」などと事情を説明したら、Hが一一〇番通報をしてくれた(H方についてから一一〇番通報を開始するまでの時間をeとする)。右一一〇番通報(これがHによるものであることは原審において検察官も認めており、争いがない。)に基づいて、前記のとおり緊急配備指令がなされた(一一〇番通報開始から緊急配備指令までの時間をfとする)。
右の各時間については、被害者の供述や現場の状況等を総合しておおよそのところを推定するほかないが、aは二、三分、bは三、四分、cは四、五分、d、e、fは各二、三分程度と認めるのが相当と思われる(原審における検察官の釈明によると、本件に関する一一〇番通報の受付時間が記帳されたものが廃棄されているとのことであり、この時間を明確にできないのは残念である。)。したがって、aないしfの合計は、一五分ないし二〇分程度ということになるので(所論はこの合計時間は少なくとも二五分ないし三〇分以上であるというが、少し長過ぎる推定のように思われる。)、犯人が強姦後トイレに入った時刻は、午前四時四五分ないし五〇分ころと推定される。
そして、被害者の供述により、被害者が犯人に気付いてから犯人が強姦後トイレに入るまでの時間を推定すると一五分前後になるので、結局、本件強姦の犯行時刻は、午前四時三〇分ころから同五〇分ころまでの間であり、日の出の若干前であったと推定すべきことになる(なお、犯人は被害者が気付くより若干前に被害者方に侵入し、被害者がベランダから逃げてから間もなく被害者方から立ち去ったものと推定されるので、本件住居侵入の犯行の始期は三〇分ころより若干前であり、その終期は、五〇分ころよりも若干後である可能性があるが、被害者が犯人を観察しえた時刻が問題であるから、右の始期と終期の時刻は除外して考える。)。
もっとも、右の時間帯であっても、戸外はかなり明かるくなっていたものと思われるし、原判決も指摘するとおり、被害者は、ベランダに面した南向きの室内で、南を枕に寝ているところを襲われたものであり、被害者の腰付近に馬乗りになった犯人の顔は、南すなわちベランダの方に向いていたと認められる。しかし、現場の実況見分調書等によると、被害者方の部屋は、南側に幅約一七二センチメートルのサッシのガラス戸(すりガラス)、西側に幅約三〇センチメートル、高さ約一メートルのモザイク模様ガラス入り明かり取り窓があり、南側には白色レースのカーテンが引かれており(網戸もある)、その外は幅約一メートルのベランダで二メートル位の高さの天井があり、高さ約1.15メートルのコンクリート製の外壁(囲い)が付いていること、被害者が当時寝ていた布団は南側から約一メートル離れたところから敷かれていたことが認められるので、これらと前記犯行推定時刻(おおよその推定であるから四時三〇分よりも若干前に開始された可能性も考えるべきである。)を併せ考えると、本件犯行当時被害者や犯人がいた付近はまだかなり薄暗かったのではないかという疑いは残るといわざるをえず、原判決の前記の説示部分には賛同できない。
4 第四に、一般に、被害者の犯人識別供述については、容疑者の面通しをする前に、犯人の特徴等をどの程度まで表現できたのかが重要な意味を持つ。なぜならば、被害者は、面通しされた容疑者を犯人と思い込んでしまうと、その後はその容疑者の特徴等を犯人のそれとして供述する危険があり、面通し後に犯人の特徴点を数多く指摘されても、それが被害当時の記憶に基づくものかどうかを容易に判定できなくなるからである。本件の被害者についてみると、被告人を面通しする前の段階での犯人像についての供述は、「年齢二七、八歳の男、上下黒っぽい服装、身長一六八ないし一七〇センチ位、パーマがかかったような頭髪」という程度に過ぎなかったようであり(原判決も同旨の判断をしている。)、これだけでは犯人像はさほど明確でないし、「目がぎょろっとした感じで、面長、手のごつごつした、きたない感じの男」などというより具体的な点は、被告人の面通し後に初めてなされた供述である。なお、以上の特徴等は、原判決も指摘するように、概ね被告人のそれと一致しているが、被害者は犯行当時犯人には何ともいえない臭いがしたと供述しているところ、被告人の当時の体臭等は明らかでなく、この点は一致するともしないともいいがたい。
5 第五に、面通しの方法等についてみると、被害者は犯行当日午前六時過ぎに現場近くまで警察官により連行されてきた被告人を観察して、直ちに被告人が犯人であると述べたのであるが、被害後面通しまでの時間が一時間余りで、この時間経過は、被害者が落着きを取戻すに足る時間であるとともに、他方犯人の人相等についての正確な記憶の保持を期待することができる程度の短時間であること、その間に被害者の記憶を歪めるような事情はなかったことは、原判決が指摘するとおりである。しかし、この面通しは、警察官数名により連行され追及されている被告人を示して「犯人らしい男を捕まえたので確認のため見て下さい」と言って行われており、被害者としては、警察官らの言動により、警察が被告人が犯人ではないかとの強い嫌疑を持っているらしいことを知ったうえで、面通しに臨んでいるのであるし、暗示性が強いためできるかぎり避けるべきであるとされているいわゆる単独面通しの方法がとられているのである。原判決も、この面通しの方法に関して、緊急のためやむを得ない側面があったとはいえ、いかにも不用意な方法とのそしりを免れない、と批判しているところであり(もっとも、原判決は、結論的には、このような面通し方法が被害者に犯人を誤認させた可能性は少ないものと考えられる、としている。)、この面通しの方法の点は、被害者の犯人識別供述の評価にあたり看過しがたいところである。
6 被害者が被告人を犯人と断定するについては、言葉で表現しがたい印象的、直感的、総合的な判断が大きなウエイトを占めていることは、それなりに理解できるところであるが、一般にこの種の犯人識別供述には供述者の断定にもかかわらず、その正確性が疑問とされた事例も少なくないところ、被害者の犯人識別供述について、以上のような問題点があることを考慮すると、その正確性には疑問を挾む余地がないとはいえず、原判決がその信用性は相当高いとした判断は、たやすく是認することができない。
四 被告人の自白について
被告人の捜査官に対する自白や公判供述を評価するに当たっては、被告人が生来知恵遅れで小学校も中学校も特別学級で学んでおり、未だ知能が低く、表現力に乏しく、物事を順序立てて要領よく説明することがなかなかできず、その供述が曖昧であったり、前後矛盾したりすることも多い、ということを念頭に置く必要がある(このことは、被告人の原審及び当審公判供述やその作成にかかる供述書・上申書等から極めて明らかである。)。
1 まず、原判決は、緊急逮捕時の被告人の供述を重視して次のように説示している。
逮捕警察官の証言及び緊急逮捕手続書によれば、被害者が被告人を犯人と確認した後、被告人は、犯行を認めるとともに、「さきほど、この近くでマンションの二階にベランダから入り、寝ていた女の人にいたずらしました」「寝ている女の人の両手を押えつけ服を脱がし、パンティをおろして犯しました」と述べた、というのである。これが肯定されれば、被告人が本件の犯人であることは、もはや殆ど動かしがたいと考えられる。右逮捕警察官の証言によれば、そこに来た数人の警察官が口々に被告人を追及していた状況が窺われるが、侵入場所、侵入口について警察官が示唆誘導したことを窺わせるものはない。当時被告人は警察官の指示に素直に従っており、任意同行を拒否するような様子もなく、何がなんでもその場で具体的な供述を得なければならない状況にはなかったことをも考え併せれば、逮捕警察官の右証言等は信用してよいと考えられる。
しかしながら、右説示には到底賛同することができない。なるほど、逮捕警察官の証言(Tの原審証言=以下「T証言」という)等に右説示に沿う部分もあるが、T証言の中には、緊急配備指令によりTら五名の警察官が本件マンションに赴き、被害者に会って事情を聞き、被害者方にも立ち入るなどし、おおよその被害状況や現場状況を知り得たこと(途中で警察官は増え五名以上になった。)、自分や他の警察官も口々に「女の人(被害者)はこう言っているけどどうやねん」などと被告人を追及したことを認める部分もあるのである。T証言においても、他の警察官が具体的にどのような言葉で被告人を追及していたのかが判然としないし、自分のほか五名を超える警察官が口々に被告人を追及していたというのに、誰も被告人に対して、被害者の部屋が二階にあるとか、犯人はベランダから侵入したというような言葉を発していないと言い切ること自体が極めて不自然であり、そのような証言部分をそのとおり信用するのは相当でない。また、緊急逮捕手続書における被告人の供述の記載も、T証言をも併せて考えると、被告人が発した言葉をそのまま速記のように記載したものではなく、警察官の発問に対する被告人の供述を要約したものとみるべきである。そして、この段階の被告人の供述は、極めて簡単であり、コンドーム使用等本件に特徴的な犯行態様について全く触れることのないごくありふれた強姦の概括的自白の域を出ておらず、警察官の追及の仕方によっては犯人でなくてもなしうるものと思われる。
2 次に、被告人の自白調書は、逮捕当日である八月一日付の簡単なもののほか、警察官に対する同月六日付、一〇日付、検察官に対する八日付、一六日付、二〇日付の計六通である。
原判決は、これらにつき、その内容は、概ね被害者の供述と一致し、最初の調書に、細部で後の調書と食い違う点が一部ある以外、供述内容はほぼ一貫している、と評価している。
しかし、取調官(逮捕に関与していないR巡査部長)が未だ被害者の供述の概略や現場からの指紋等の検出状況を十分に把握していなかったと認められる段階で作成された八月一日付警察官調書には、身上、経歴についての詳しい記載はあるが、犯行状況については、緊急逮捕手続書の被疑事実の内容を平易な言葉で記載したうえ、これに対する被告人の供述として「だいたいそのとおりで後日よく考えて話をしますが、①ベランダのガラス戸はしまっておったが、鍵はかかっておらず、簡単に室内に入ることができました。②女性の膣の中で射精をしました。③最後に女性が大声を出したので私も部屋出入口より逃げました。(取調官が被害者の傷害を知らせた旨の記載……略)」と記載されているのみであるところ、右①ないし③の供述は、被害者の供述と対比すると、いずれも虚偽もしくは不自然なものというほかない。すなわち、①は、暑いのでガラス戸を三〇センチメートル程度開けていたという被害者の供述と食い違っている。②については、被害者の供述によると犯人は被害者が子供ができたら困ると言った後コンドームを装着したというのであり、これは被告人に有利な犯情であるから、コンドームに全く言及しないで膣内で射精したと供述するのは、かなり不自然なことのように思われる。③は、犯人は犯行後トイレに入ったが、出て来る様子がなかったので、ベランダから逃げたという被害者の供述と甚だしく食い違っている(③からは、被害者も部屋出入口から逃げたようにも読み取れる。)。
そもそも、被害者は、本件の犯行状況につきかなり詳細に記憶し、順序立てて数多くの具体的な供述をしており(この供述はほぼそのとおり信用できる。)、真犯人でない者が想像や思い付きで、この被害者の供述と符合するような供述をなしうるとは考えられない(前記1のとおり、緊急逮捕前に数人の警察官が被告人に対し、被害者はこう言っているなどと口々に追及してはいるが、被告人の知能程度からすると、これによって被告人が被害者の供述の詳細を系統的に把握できたとは考えられない。)。したがって、被告人が捜査官の誘導を受けない状態で、犯行状況について被害者の供述と相当程度符合する具体的な供述をなしえたのであれば、犯人であることは間違いないといってよいが、被告人の自白に被害者の供述と符合する点が少なく、矛盾するか具体性に乏しい点が多いというのであれば、犯人と断定するには慎重を期すべきことになるであろう。しかし、被告人の取調べにあたったR巡査部長にこのような問題意識が全くなかったことは、右のような八月一日付調書の供述を得ただけで、被告人が犯人であるという十分な心証がとれたなどというその当審証言や後述するような自白調書の作成時期、内容に照らし明白である。被告人の八月一日付調書の①ないし③の供述は、後にいずれも被害者の供述と符合するように変更されているが、その供述変更の理由は自白調書には記載されていないし、不明というほかない。被告人が自ら犯人であると認めておりながら、被害者の供述と矛盾する①ないし③のような供述をし、これ以上に犯行状況についての具体的な供述をしていないことを、被告人の知能程度と併せ考えると、八月一日付調書は、むしろ被告人が犯人であることに疑問を抱かせる内容のものというべきであろう。
3 被告人は、八月二日午前中の検察官の弁解録取及び裁判官の勾留質問においては、自分は犯人でないと否認したが、R巡査部長の当審証言やその作成にかかる備忘録(当審で提出)によると、被告人は同日午後のR巡査部長の取調べ中にまた自白に戻ったと認められる。しかし、その後の自白調書の作成状況をみると、八月六日付警察官調書は、被害者方に侵入してからの犯行状況に関する部分は、一四枚の内の一枚程度に過ぎず、経歴等がその大半を占めており、八月八日付検察官調書も犯行に関しては右警察官調書と同旨の簡単なものである。八月一〇日付警察官調書でようやく犯行状況に関する詳細な供述が録取されているが、その内容は被害者の供述と細かい点まで殆ど一致しているし、本件マンションや被害者方の状況等も詳細に盛り込まれており、これは取調官が実況見分調書等を参考にして誘導したのではないかと思われる。
被告人の捜査段階の供述経過の関係で問題となるのは、八月一〇日付警察官調書に添付された被告人作成の図面二枚の作成時期である。この図面には、被害者方への侵入経路、被害者方の模様、逃走経路などが記入されており、いずれも八月二日に作成した旨が記載されている。R巡査部長の原審及び当審証言や備忘録によると、これは被告人に八月一日の夕刻から書かせて、翌二日の朝完成したものであり、犯行の際使用した手袋等を捨てたという地点等は一日に供述していた。というのである。一日夕刻に被告人が右の地点(ゴミ置き場のようである)を図示したというのであれば、捜査官らとしては特段の事情がないかぎり、直ちにこれを捜索するものと思われるのに、関係証拠によると、八月九日に被告人に案内させて右地点等を調べたが、手袋やコンドームの袋を捨てたというゴミ置き場は、収集日が火曜日と金曜日であり、捨ててあったとしても八月三日(金曜日)に収集されたのであろう、ということであり、なんとも悠長な話となっている。本件では、被告人と犯行を結び付ける客観的証拠が結局皆無となっていることは、前述したとおりであるから、捜査官の右のような動きには理解しがたいものがあり、この点は重大な捜査のミスというほかない。もっとも、この図面が八月一〇日付調書に添付されていること、八月九日にこの図面に基づく引き当たり捜査が実施されていること、被告人は八月二日に検察官や裁判官の前で否認しているので、その直前にこの図面を完成させ、署名などするのは、やや不自然であること、この図面については、八月二日付の被告人の任意提出書とR巡査部長の領置調書が作成されているが(当審で提出)、通常、取調べの過程で被疑者に作成させる図面にこのように丁重な手続は取られていないと思われること、前記のような捜査ミスがあったというのもかなり不自然であることなどを併せ考えると、八月一日夕刻から被告人がこの図面の下書きのようなことをしたとしても、この図面を完成したのは八月二日よりかなり後ではないかという疑いを否定し去ることも困難である。いずれにせよ、犯行現場の実況見分は八月一日午前五時三〇分から同七時までの間になされており、被害者の具体的な被害状況に関する供述が記載された告訴調書や供述調書(被害者方の見取図も添付されている。)はいずれも八月一日付で作成されていることなどから、この図面作成時には、R巡査部長も被害者の供述内容やその他の捜査状況をある程度は把握していたと認められるし、前記のような問題意識の欠如からすると、同巡査部長が被告人に誘導、示唆を一切しなかったとは認めがたい。
4 原判決も、被告人の自白の内容につき、次のとおり不自然な点があると指摘している。
第一は、自白では、コンドームを袋から取り出して陰茎に装着し、姦淫後これを取り外して便所に捨てた、という一連の犯行を、パチンコ店で作業用に使われていた軍手をはめたまま行なったということになっている点である。この点について被害者は、警察官調書では明示的には述べていないが、「ごつごつした手」というような表現を用いて、そのとき犯人が素手であったことを前提とした供述をしており、証言でも「男の人のようなごつごつした感じ」と述べているので八月六日付の検察官調書にある「滑り止めのついた軍手のような感じの手で触られた」との供述記載は、犯行に使用されたと考えられる洋バサミから指紋が検出されなかったことなどから、検察官が誘導した結果である疑いが強い。被告人自身の警察官調書でも、コンドームを取り出したりしたとき手袋をどうしていたかについて明示的な記載はなく、取調官がその点について全く留意していなかったことが窺われる。八月八日付の検察官調書の「手袋をはめたまま犯行を行なった」との部分は、洋バサミから指紋が検出されていないこと及び八月六日付の被害者の検察官調書に基づいてさらに被告人を誘導した疑いを拭いきれない。それにしても、被告人が何故容易に誘導されたかについて、やや疑問は残る。
第二は、被告人の逃走経路に関する自白と職務質問を受けた時刻との関係の点である。被告人は自白調書の中で犯行現場を出てから職務質問を受けるまでの逃走経路についても供述し、犯行後「すぐ寮の中に入るとふが悪いと思い、十三の方へでも行って時間をつぶしてから帰ろうと思って寮の前を通り過ぎ、途中手袋やコンドームの入った袋を捨て、自転車で進むうち、こんなに朝早くからうろちょろしていてもかえって変に思われると思い、寮に帰ることにした。寮の前まで戻ったところで職務質問を受けた」旨述べている。それ自体には何の不自然もないが、その中で被告人が自転車で移動したとする経路は、距離にして、たかだか1.5キロメートル程度しかなく、逃走中格別時間を費やしたような事情について何も述べていないことからすれば、午前六時五分ころ被告人が寮の前で職務質問を受けるまで犯行後約一時間が経過している事実と符合しない。
右の原判決の疑問点の指摘は、もっともである(第一の点につき、当審で提出されたR巡査部長作成の捜査報告書や同人の当審証言をも併せて検討しても、やはり原判決の説示は正当と思料される。)。問題は、この疑問点の自白全体の信用性との関係での評価である。
原判決は、被告人の自白には、右の二点を除けばその信用性を損なうような不自然、不合理、矛盾等はなく、右二点も、被告人の自白全体の信用性を左右するほどのものとは考えられない、とし、第二の点につき、取調官の公判証言によっても、取調官はその間の矛盾に全く気付いていなかったのであって、詰めの甘さは否定できないが、事柄が犯行後の逃走経路に関することであり、その重要性を過大視すべきではない、と説示している。しかし、右二点が意味するところは、取調官が被告人を容易に誘導しえたということと、取調官が気付かなかったため誘導できなかったところは、不自然なままに残っているということ(およそ真犯人による真実の自白であれば、取調官が気付かなかった点についても、他の証拠と整合していることが多いはずである。)であり、後述するとおり、被告人の自白にいわゆる「秘密の暴露」ないしこれに準ずると目される部分が全く見当たらないことをも併せ考えると、被告人の自白は取調官の誘導と被告人の迎合等の産物ではないかとの疑いを否定し去ることは困難である。
5 原判決は、次の①ないし④のような自白内容は、捜査官の知らない事実であり、また容易に推察することもできない事実であって、被告人が進んで供述したものとしか考えられず、このようなことを被告人があえて作り話でする理由も考えられないのであって、これらの供述は、被告人の体験に基づくものとみて差し支えない、と説示している。
①七月二八日ころ、三国の駅前商店街で偶然被害者を見かけ、好きなタイプだったので、こんな子と付き合えたらなあといった気持から跡をつけてその住まいを見届けた。②侵入に当たっては、玄関の戸が閉まっていたので、一度下に降り、道路からマンションの様子を見渡して侵入口を物色し、再度二階に上がり、ひさしを伝ってベランダにまわり、そこから室内に侵入した。③侵入後はまず逃げ道を確保するため玄関の鍵を開けておいた。④犯行に使用したコンドームは、二、三か月前に梅田のお初天神通りにある「大人のおもちゃ」の店で買った、キーホルダー型の箱入り二個一組のものである。
しかし、①についてみると、被害者方の位置関係(マンションの二階であることなど)からしてその中に若い女性がいるかどうかは周囲からは見えないこと、犯人ははじめから強姦目的であったと推定されること(被害者の供述による)などに照らすと、犯人はあらかじめ被害者方に若い女性が居住していることを知っていたものと推定するほかないから、捜査官において被告人にこの推定にあうような供述をさせるように誘導したことは、十分に考えられる。なお、被告人の自白にある尾行程度では(被告人は被害者がその部屋に入るのを約二〇メートル離れた階段付近で見届けたに過ぎないことになっている。)、被害者が一人で居住しているのか、同居人がいるのかは判らないと思われるから、直ちに侵入を思い付くというのもやや不自然である(もっとも、被告人の知能程度、生活態度を考慮すると、不自然さの程度は低い。)。②については、梯子や縄などの道具を用いないかぎり、玄関が施錠された被害者方にベランダ側から侵入するには、被告人の自白にある経路しかありえないのであり、現に被害者はベランダから同じ経路を逆に辿って階下に逃げ出しているのである。これも、被告人が犯人であるという以上は、侵入経路はこのように供述してもらうほかないのである。③については、犯人がいつ玄関の鍵を開けたのかは被害者の供述でも不明であるが、被告人の思い付きでも簡単に供述しうる事柄といえよう。④については、そもそも、被害者の供述によっても、犯人がどのような種類のコンドームを使用したのかが不明であり、自白にあるようなキーホルダー型のものが犯行に使用されたことの裏付証拠がないのである。犯人がコンドームを使用したことは動かない事実であるから、取調官が被告人にコンドームの入手先を追及するのは当然であり、被告人はその供述にある店でコンドームを売っていることを知っていたというのであるから、犯人でなくても供述できる事柄といえる。なお、被告人がその店でコンドームを購入したという裏付証拠もない。原判決の①ないし④の供述に関する説示には賛同できない。また、被告人の自白内容を仔細に検討しても、いわゆる「秘密の暴露」ないしこれに準ずると目される部分は全く見当たらない。
6 なお、被告人の原審公判での捜査段階で自白した理由や取調べ状況に関する供述には、原判決が指摘するように、前後矛盾し、甚だ曖昧かつ不自然なところが多い(当審公判供述についても同様のことがいえる。)。しかし、起訴されていない窃盗などは認めつつ、本件住居侵入・強姦の犯人ではない、と供述する点では、原審及び当審を通じ一貫しているし、本件犯行推定時刻ころの行動についても、裏付証拠はないがほぼ一貫した供述をしている。ともあれ、被告人の公判供述に不自然な点があることは、被告人の自白の信用性の評価に無関係ではないが、これまでみたような自白自体の欠陥を補って、その信用性を高めるほどのウエイトを持つとは考えがたい。
7 このようにみてくると、被告人の自白についても、その信用性に疑いを容れる余地があるというべきであり、被告人の自白は大筋において信用できるとした原判断は、これを是認することができない。
五 以上のとおり、被害者の犯人識別供述及び被告人の捜査段階の自白は、いずれもその信用性に疑いを容れる余地があり、この両者を合わせても被告人を犯人と断定することについてはなお合理的な疑いが残るというべきである。そうすると、被告人を有罪とした原判決は、事実を誤認したものといわざるをえず、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。
第二 結論及び自判
よって、本件控訴は理由があるので、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により、更に次のとおり判決する。
本件公訴事実の要旨は、前記第一の一記載のとおりであるが、前示のとおり犯罪の証明がないことに帰するので、刑訴法四〇四条、三三六条により被告人に対し無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 重富純和 裁判官 川上美明 裁判官 安廣文夫)